日本の教育思想の変遷
日本の教育思想についても触れておきましょう。我が国では古くから貴族や武家の教育が中心でありましたが、状況は近代に近づくにつれ次第に整ってきます。それまでは主に寺院が子どもの教育を行っていましたが、江戸時代に入ると民衆に対しては寺子屋が、武士に対しては藩校や私塾が武家の教育を行うようになりました。
私塾としては、儒学者の広瀬淡窓が1805年に開いた咸宜園、緒方洪庵が大阪に開き福沢諭吉などを排出した適塾、吉田松陰が維新の立役者や明治政府の政治家たちを輩出した松下村塾などが有名です。
明治に入ると、鎖国をやめた日本が海外から様々な教育思想、および教育のための道具(机椅子、黒板やチョークなど)、「起立・礼・着席」などの行動様式を輸入します。明治政府は1872年の学制発布で国民皆学の理念を示し、1879年に発布された教育令により市町村が小学校を設置することになります。
初代文部大臣に就任した森有礼は教育を富国強兵のためのものと位置づけ、1886年には小学校令、中学校令、帝国大学令、師範学校令を公布して近代的な学校制度の基礎を固めています。小学校令では「尋常小学校」「高等小学校」をそれぞれ4年と定め(1907年に義務教育自体は6年となりました)、保護者の義務が法令化されることで義務教育制度が確立します。
1900年には小学校の授業料の徴収が禁じられ、義務教育を無償とする方針が確立されました。ただ、忘れてはならないのが1890年の「教育に関する勅語」です。天皇によって発せられたこの勅語により、国民の精神統合および国家主義的な精神の教育が進んでしまいます。
大正時代に入ると民主主義・自由主義的な運動として大正デモクラシーの影響が見られるようになり、教育においても児童を中心とする自由教育が盛んに行われるようになりました。当時の自由教育を実践した推進者および学校は以下の通りです。
- 澤柳政太郎……成城小学校
- 野口援太郎……池袋児童の村小学校
- 小原國芳……玉川学園
- 赤井米吉……明星学園
- 羽仁もと子……自由学園
この頃には鈴木三重吉の『赤い鳥』運動などの芸術教育も盛んになりました。画一的な教育に縛られない自由さを求めた時代であった、といえるでしょう。幼児教育としては倉橋惣三が東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事として着任し、自由な遊びと生活ルールに根ざした自己充実を目指す「誘導保育」を提唱しています。
やがて昭和に至ると皇国主義・軍国主義が強調されるようになり、教育に対する国家統制も色濃くなりました。教育勅語からおよそ50年後、1941年には小学校の名称が「国民学校」へと変更され、教育も戦時体制へ突き進んでいくことになります。
敗戦とともに教育の体制ががらっと代わり、教育基本法や学校教育法が制定され6・3・3・4の学校制度と9年の義務教育制度が確立されたり、戦後に様々な教育改革が施されるなどして、ようやく現代の教育制度に近づいてきます。