保育の思想的な変遷
「保育」という言葉には様々な思いが込められています。その原理的な理念や概念についてはLesson1-1でも多少触れましたが、この章ではその思想的な変遷を辿っていくことにしましょう。
近代社会と子ども
かつてキリスト教世界では子どもは原罪にまみれた存在として、厳しくしつけられる対象と考えられていました。
西欧社会が近代的な市民社会に移り変わるにつれて、教育のあり方や子どもへの関心も変わってきます。子どもは大人とは異なる独自の世界を持つ存在であり、われわれは子どもを尊重し慈しまなければならない、という態度が生まれてきたのです。一方、この頃から貧困・労働環境の悪化から子どもの教育が満足に行えないようになり、家庭での教育を保管する機能を持つ施設が社会的に要求されるようになりました。
近代における子ども観の形成に重要な役割を果たしたのは、『社会契約論』や『人間不平等起源論』を発表したルソーです。彼の著作『エミール』(1762年)は、主人公エミールに対する幼児から成人期までの教育を描いたフィクションですが、ここに表現されている「子どもには生まれつき『善』や『知的探究心』が備わっているため人為的な教育はなるべく排除して自然に導かれるままにする」という考え方(消極教育)がルソーの教育思想の核となっています。
ルソーに遅れること数十年、『人間の教育』(1826)を記したフレーベルは人間のうちに宿る神性を引き出し実現することが教育の目的であると述べ、感覚の発達を促す玩具「恩物(おんぶつ)」を作ったり、1839年に設けた「遊び及び作業教育所」が翌年「幼稚園(Kindergarten)」と史上初めて命名されるなど、保育史に功績を残しました。
子どもの保護施設の創設と変遷
ルソーと同時期に活躍し、子どもの保護施設を創設したのがオーベルランです。彼は子どもを「保護」する目的のものとしては初の試みとなる施設を作り、村の女性たちに将来の生計を立てる手段として編み物を教えました。
その後、実業家のオーエンが工場で働く労働者のために「性格形成学院」を開設し、幼少期の子供を預かる幼児学校を学院内に設立しました。彼は生まれながらの素質と環境による後天的な影響が人間の性格を形成すると考えていたので、子どもの教育と彼らの置かれる社会環境の改善に力を入れ、幼児学校では戸外での活動を取り入れるなど独自性を見せています。
民衆教育の父と呼ばれるペスタロッチは、ルソーの影響を受けて子どもの教育観を作り上げました。彼は子どもの教育は合自然的な生活の中で触発され形成されることを「生活が陶冶する」という命題で示し、孤児院を作り直感を重視する教育を作り上げ、生活や作業を通して学びを得る労作教育を実践しました。
1911年、ロンドンにて、共働きの家庭の子どもを預かる保育学校を設立したのがマクミラン姉妹です。現代の保育所にも通ずるこの施設では、1日3回の給食や沐浴歯磨き、午睡などを取り入れ、生活習慣の形成に取り組みました。
教育運動と幼児教育
1896年、プラグマティズムを代表する思想家でもあるジョン・デューイは、シカゴの大学に実験のための小学校(実験学校)を設立し、「児童中心主義」などの理念と実践の記録をもとに『学校と社会』などの著書をしたためました。彼は教育を「経験の継続的な再構成」と定義し、教育の過程そのものを教育の目的として考えました。
その考え方を取り入れたのはイギリスの心理学者・精神分析家であったアイザックスです。彼女は実験学校において幼児の日常生活の観察記録を獲り、子どもの思考の合理性を解明したり、知的興味を満たすために科学的な実験を行うなど、現代の小等教育に近いものを実践しています。
デューイやアイザックスとはまた違った流れになりますが、ローマで医師として働いていたモンテッソーリは、知的障害児に対する感覚教育法で知的水準を引き上げるという成果を上げました。彼女は1907年、ローマのスラム街に「子どもの家」を設立し、子どもの創造的態度を重視する教育過程の中で感覚教具を使った感覚訓練を実践し、これらの考えを『子どもの発見』などの著作で発表しています。
保育思想におけるその他の重要人物
社会の教科書に載るような重要人物を2人紹介しておきます。まず、イタリアの児童精神科医であり精神分析家であったボウルビィについてみていきましょう。
愛着理論という言葉に聞き覚えがあるでしょうか。第二次世界大戦後のイタリアで孤児たちの発達に関する問題が立ち上がったとき、ボウルビィは現地に調査に赴き、その当時の研究を『乳幼児の精神衛生』で報告しています。彼は母子の接触の欠落から来る免疫の問題や精神的な問題を「母性的養育の剥奪」として定式化し、愛着(アタッチメント)として理論化しました。
歴史学の一派であるアナール学派に所属するアリエスも重要な人物です。社会史の視点から子どもや家族について研究した彼は、『<子供>の誕生』(1960)などの著作を残し、近代以降の子供観の研究を形成することになりました。西欧ではそれまで7~8歳頃になれば大人の一員として見られていた子どもが、アンシァン・レジーム期を境に現代における「子ども」として再発見された過程について記しています。